| 久比里祭囃子 |
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久比里の祭囃子は、大正7〜8年ごろに隣接の内川町内に江戸末期に 藤沢より伝承されていたと云う。 「きりばやし」を習得して、久比里の祭囃子として発足しました。 そして、その組織が久比里のはやし方となって、 以来年々祭礼の盛上に、大きく貢献してきました。 昭和16〜21年ごろ(戦中戦後)までの間、一時中断されました。 この間後継者の育成も無く、又修得者の人々も減り、 残された人々に大きな負担を、かけて参りました。 祭礼には不可欠な、この「きりばやし」を残そうとの 声が高まり町内役員、青年会、子ども会などの各有志の力添えによって、 後継者の育成に務めることになりました。 ここに 「久比里囃子保存会」 が結成されました。 |
| 若宮神社 由緒記(その1) |
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祭神 大鷦鷯 尊(おおささぎのみこと) 相殿 大山 昨命(おおやまのぐひみこ) 例祭 八月一日 祭神大鷦鷯尊は第十六代仁徳天皇の御別名を申し上げる。 天皇は聡明仁滋に渡らせられ難波(今の大阪)の高津宮より 民の炊く烟を望み拾い、民を愁れませし御事蹟によっても、 天皇の御恵み深き御神徳を仰ぎ奉ることができる。 享禄四年(足利時代。西暦1531年)6月鎌倉大町の千葉介常胤の 末流なる臼井宗左衛門、源家の由縁に依って鶴岡八幡宮の若宮神社の 御分霊を遷し奉り、この地久比里の土産神とおまつり申し上げたのが 当社の設立のはじめであります。 当時、この地は散々たる一寒村でしたが、宗左衛門が若宮神社を還し まってより、卒先して神砥を敬い、大いに産業を奨励し開拓に努めました。 その一族が栄るに及んで大神の御神徳を崇敬そる者益々多く、 徐々に町を栄えせしめたといいます。 久比里の地名は、その起源甚だ詳でないが、わが国の地名往々にして 神社によること、少なくなし。 相模風土記によれば、若宮権現 久比里の鎮守村持神体木立像 社の床下に石あり、ながさ二尺五寸許り土地これを崇敬す。 石の中くびれたり。 久比里の知名これより起これり伝々とある。 |
| 若宮神社 由緒記(その2) |
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相祭神としての、大山昨命は、享保三年十月久比里臼井利右衛門の 勧請と伝えられる。 神徳を述べるに、古事記によれば、大山昨命は大年の神の御子で、 近江国日枝山(比叡山)に鎮まる山の神で「グビ」と云う 言葉は、山の樹木やその麓の田野の五穀を「グビグビ」と 伸ばして下さる御神徳を指したものである。 その兄弟神に、火の神、庭の神、入り口の神、大土の神があり、 その両親の神が大年の神と水の神であることを考えると、 五穀豊穣から家庭の日常生活の守護の神として、 それぞれの家に祭られていた神様だと考えられる。 |
| 又若宮と云う語は |
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平安時代以後、怨霊思想や御霊信仰が盛んになると、災厄の 原因を怨霊、御霊の仕業と考えそれ等を若宮として御祭りし その統制の大神(仁徳天皇)に服させ「たたり」を封じ込む 若宮として御祭りする由来が多い。 |
| 祭日 |
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平昔は六月一日であった。 現今は八月一日である。 当日は必ず降雨あるとて、三浦の下駄祭りと称して、有名であった。 |
| 久比里町内周辺の祭り「ばやし」について |
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平昔は六月一日であった。 現今は八月一日である。 当日は必ず降雨あるとて、三浦の下駄祭りと称して、有名であった。 |
| 「はやし」の種類 |
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この久比里地区周辺の、「祭りばやし」は古くから、大間(万)ばやし、 きり(桐、切り)ばやしの二種類に別れて伝承されている。 昭和になってから、浦賀の芝生に秦野よりゆるやかな「祭りばやし」が受け継がれている。 曲目の名称は、長い年月の間に地区町内の、なじみの良い呼び名に変化している。 (例〉はやし、屋台、ころばし、ザラは同一である。 神田丸、ピーヒーシも同一である。 |